スクリバは、同僚 ベルツのように日記を残さなかった。そこで、土肥慶蔵の遺稿集(鶚軒先生遺稿集)の中の「スクリバ外科医局日誌」より東京帝國大学医科大学第一医院での若き医師たちの奮闘記の中に記述されているその後偉大な日本の外科医となる医師たちとスクリバについての文章を引用する。
明治23年当時の内科・外科は、内科がベルツ、外科がスクリバ両教師がその主任であった。第一医院に対して泉橋慈善病院の処に第二医院があり、そこには佐藤三吉、青山胤道の両教授が主任であった。
スクリバ教師外科クリニックの医局に宿直日誌があり、第一冊は明治23年12月10日~明治24年4月2日 第二冊は、明治24年4月1日~同年8月23日 第三冊は、同年8月24日~同年10月20日と同年10月21日~明治25年2月末までの日誌が残されている。
土肥慶蔵の遺稿集(鶚軒先生遺稿)には、スクリバに対しての追悼文がドイツ語で載っており、高橋日出雄の訳文。
スクリバ教授への追悼文 (1905年 皮膚科学及び泌尿器科学雑誌 5巻2頁)
人生のこの非情な辛い運命の触手が全く予期せぬ不意の事態を描くとは我々にとって全く大切で、いとおしい事です。我々の敬愛する先生の姿をほんの少し前まで、多くの想像力と行動を拝見していたのに、今や永遠に観ることが出来ないとは、我々は今だに、心を落ち着かせる事ができない状態です。彼ははるばる遠方の地、故郷を離れ、その年齢で凜として、多くの恩恵をもたらす職務の道、半ばにして、彼は昇天されたのである。彼が他界された事実は深心が痛み、あふれるばかりである。文字どうり彼は強靱な学者であったばかりでなく、まれな特性の性格を持ち全身全霊を使い果たす、非常に親切心を持った人物であった。筋の通った単に一途な道のりに、真実に忠実で、高貴な信念を持っており、彼は人々のお手本であった。雄弁に証明している彼の人望に対しては、日本の学生達からも、同郷の人達からも、ここの代表的な人達、数多くの関係者の方々からも、彼の埋葬に際し、いまだに、心が動揺しているのです。ユリウス カール スクリバは1848年6月5日 ヘッセン大公国のバインハイムで生誕された。薬学を修得された後、医学に志された。普仏戦争の中、1年間、修学を中止し1年間の契約で従軍医師として活動された。その後間もなく助手として招かれ終戦を迎えて、彼はハイデルベルグ大学の医学部へ進学した。1874年彼は大学医師となり、多くの実績を積み、フライブルグ大学のシモン教授の元、助手として研賛し、更に講師に昇格した。そこで、医学と植物学の領域の専門性の分野で幅広い学問的業績を積み、目覚ましい活動に導かれていった。この彼の輝かし仕事内容に、多くの名声を得た後 1881年、外科学教授として、東京帝国大学へ招聘されたのである。この地、日本で彼は好条件のもと、幸せ多く人生の活躍する機会をつかんだ。不屈の精神でこの国と科学界に多くの業績を成し遂げたのである。彼は東京帝国大学医学部第一外科学の教授として、また指導者して、20年間中断することなく、休みなく仕事をして過ごしてきた。1900年、彼はこの地位を辞し、名葉教授の称号を得たが、生涯に亘って聖路加国際病院の指導者として仕事をした。日本は彼にとって第二の国ですが、彼にとって、言わば真の故郷になってしまいました。我々は彼をわれわれと同じ心をもったものとして、この国の住民の心情を持ち合わせていることに対して記念碑を建立する事になる。彼の逝去はわれわれの中にいて、心の隙間を満たしてくれない。いわば、彼は勤勉の種を播き、さらに絶え間なく種をまき続けて、充実した畑に育て上げた。そして、豊富に結実した収穫物を得、彼の実り多い、継続した仕事として、ある意味まったくの幸運であります。彼のそばで仕事を援助し続けた我々としてまったくの名誉なことで、記憶に残る存在となることでしょう。我々はこの敬愛され、尊敬すべき恩師に対して、忘れ去ることができない感謝の気持ちは常に思い出されることでしょう。師の多くの指導のもとに、われわれの人生行路の第1歩を踏み出すことでしょう。
第二回日本外科学会誌 明治三十三年四月 演説ユリウス・スクリバ 述 松岡道治通訳 「結核性骨及び関節疾患の所置」 骨及び関節疾患の内結核は最多の位置を占め吾人外科医者に来るもの日に益々多きを加ふ特に日本に於いては西洋諸国に比し稍々多きが如し随て医師に経験の便利を興ふること他の疾患よりも多しとす然るに現今外科的の疾病にして其の発病位置と其治療の方法に関しては現今外科的社会に於いて蓋し如斯説の分るるものあるを見ず是れ各人其考ふる所と治療の方法の異なるに因るものなり。 以下続く