森島(織田)久代先生(2)

森島久代先生の経歴およびご両親のルーツについて

3年前(2013年)に沼津の森島先生の母校(当時は女学校)での講演より(沼津朝日の記事より転載)

西高 (小永井均校長) は先月、 同校前身の沼津高女四十五回生の森島 (旧姓・織田) 久代さんの 「ああ我が友」 と題した講演会を同校体育館で開いた。
森島さんは東大医学部で麻酔科学領域を研究していた一九五九年に渡米。 男性優位の医学界で言葉の壁と人種差別を乗り越え、コロンビア大学医学部麻酔科で女性として二人目、 日本人女性初の教授に就任。 女性の医学界進出や地位向上などへの尽力と日本医学界への貢献が認められ、 一昨年、 春の叙勲で瑞宝中綬章を受けた。 コロンビア大医学部名誉教授として日本を度々訪れ、 学会で講演、 助言をしている。
 西高での講演で森島さんは 「美しい富士山が見える沼津は、私を育ててくれた故郷。 そして西高、 旧 制沼津高女は私が巣立った学校。 この思い入れは歳月が重なるにつれて募り、『富士の高嶺の』に始まる懐かしい校歌を歌うたびに熱いものが込み上げてくる」 と母校愛を語った。
 三女一男の次女として伊東市に生まれた森島さんは四歳の時、 千本郷林に転居。 外国航路の機関長だった父親の影響で、 物心つく頃から欧米文化の影響を受け、 「君が代」 を覚える前に米国国歌のメロディーが耳に入っていたという。
小学生になると、 校庭の桜の木に群がる毛虫を採っては友達の体に付けて意地悪する一方、 読書が過ぎて小学二年生で眼鏡使用になると上級生に毎 日のように 「生意気だ」 といじめられた。 動植物を観察することが楽しみで、 水田から蛙の卵を採ってきて水槽で飼育し、 オタマジャクシから蛙にふ化すると腹の中を知りたくて自ら解剖。 「創り出す喜び」 は今も変わらないという。
 一九三七年に始まった日華事変、 四一年からの太 平洋戦争。 日本が連日、 戦 勝報道に沸き上がっていた時、 欧米の底力を知っている父親は 「この戦争は、 相次ぐ勝利のうちに終結しなければ、 資源のない日本は耐えられない」 と、 無謀な戦争を憂慮。
 その父親は 「女でも将来、 独り立ちできるような職業を身に付けることが大事だ。 そして、 どのよ うな職業に就こうとも、 その道のエキスパートになりなさい」 と三姉妹に助言。 この言葉が、 森島さんを医者の道に導いた。
 小学五年生の時、 「医者になりたい」 という森島さんの思いを知った担任の教諭が 『キュリー夫人伝』 をプレゼント。 学者、 妻、 母でありながら女性初のノーベル賞受賞者、 しかも物理学賞と化学賞と二度受賞したキュリー夫人にあやかりたい、 と森島さんは夢を膨らませた。 小学校の卒業式が終わった最後の教室で、 担任が黒板に書いた 「青は藍より出でて藍より青し」 に衝撃を受け、 走って帰宅するなり母親に、 「私、 先生より偉くなれないかも知れないけれど、 お医者さんになって南方の植民地の人達のために役立ちたい」 と言ったことを今でも鮮明に覚えているという。
 やがて憧れの沼津高女に入学。 戦争中だったがしばらくは普通の女学生生活を楽しんでいた。 しかし、 二年生になった頃から食糧や物資が不足して きて配給制度が始まり、 学 校も戦時体制となって英語は敵国語だとして廃止。
 森 島 さ ん は ミ ッ ド ウ ェ ー海戦の失敗、 アリューシャン列島アッツ島の玉砕に触れ、 なぜ玉砕しなければならないのかと不安に思った、 というが、 日本の作戦情報 (暗号) が敵方に解読され日本艦隊が壊滅されたことは国民には知らされなかった。
 乗 船していた船が加わっていた輸送船団が魚雷を受け九死に一生を得た父親は、 極度に悪化していた戦況を子ども達には知らせず、 四三年の正月に髪を切り、 「国難にと年新たなる髪遺す」 の俳句と共に残したという。
 そ んなことは露知らず、 沼津駅に父親を送った二カ月後、 父親の悲報が届く。
 広島から父親の遺品を持ち帰った母親は 「これからはお父様の死が無駄にならないよう、 日頃からの教えを守って生きていくように。 お父様の分まで長生きして皆を守ります」 と宣言。 その言葉どおり、 百三歳という長寿を全うした。
 森島さんは父親の死により、 「なぜ人々は戦い、 殺し合い、 愛する者までも奪ってしまうのか」 という、 戦争当時は非国民と非難されたであろう思いを抱き、 その時の、 命に対する価値観の急激な変化を明かした。
 四五年七月十七日の沼津大空襲では、 空も海も赤々と燃えた地獄図のような夜を振り返った。
 沼津大空襲の後、 敗戦の 報を聞いた森島さんは、 苦難の日々が無駄になった落胆と、 父親の死は犬死にだったと思う残念さなどもあり、 一家で泣いた。 しかし、 「これまでの辛い経験を忘れなければ、 今後、 どのような苦労にも耐えられる」 と決意。
 庭にベビーゴルフ場を持つほどの裕福だった家庭も敗戦とともに 「にわか貧乏」 となり、 母親が京都まで出かけて購入した反物や、 父親が外国から母親に買って来た宝石類、 外国の芸術品などは次々と食料に変わり、 家から消えていった。
 このような経済状況の中、 医学部進学を希望する森島さんは、 家族や親戚から 「医学校へ進むなんてとんでもない」 と反対されたが、 母親だけは父親の 「女でも将来、 独り立ちできるようになりなさい」 の言葉どおり娘の背を押した。
 当時、 医学部のある大学は女性に門戸を閉ざしていたこともあり、 東京蒲田にあって沼津から通える帝国女子医専を五年制の高女卒業一年前に受験し合格した。 帝国女子医専は戦後、 東邦大学医学部となる。
 入学当初、 朝五時に家を出て蒲田駅で下車し、 焼け野原の中を二十分かけて歩き学校へ。
 授業終了後は、 蒲田から 小田原まで二時間立ちっぱなしで、 帰宅は夜九時。 食糧難もあり体力が限界に達したため、 寄宿舎生活に移り、 授業料滞納者リストに何度も載りながらも母親と姉の支えと奨学金で無事卒業を果たす。
 そして、 インターン生活 に入ったが当時は無給。 夜間の患者を受け持つ条件で、 食事、 部屋、 小遣い付きの医院に勤務し、 医師免許取得後は、 実家から通える国立熱海病院 (現・国際医療福祉大学熱海病院) の外科に勤務した。
 外科医として充実した日々を満喫していた森島さんだったが、 手術の手伝いで森島さんの手先の器用さを知る東大医学部の元教授が、 東大に新設される日本初の麻酔科に移ることを勧める。
 しかし、 決断がつかないまま、 その後、 小田原の外科病院に住み込み、 溢れる患者に対応していたが物足りなさを覚え、 「未知の麻酔学をのぞいてみるのは外科医にとって無駄にはならない」 と思い立ち、 東大麻酔科講座に医局員第一号として入局。
 と同時に、 肺結核に対する手術が盛んに行われていた函南の伊豆逓信病院 (現・NTT東日本伊豆病院) に正職員の外科医として就職。 その時に出した条件が、 胸部手術に欠かせない麻酔学を東大で修得するための掛け持ち勤務。
 やがて、 研修医として米国の麻酔学を修得する機会が訪れる。 五九年、 経済的に飛行機を利用できないため、 貨客船でサンフランシスコへ。 そこからは空路、 目的地のワシントンへ向かった。
 この時の麻酔研修契約は一年間だったが、 上司に認められ一年延長。 しかし当時の研修医には労働時間に制限がなかったため、 早朝から夕方まで立ち尽くしで、 ヨレヨレのボロ雑巾状態だったという。
 渡米二年目の十二月、 ニューヨークで開かれた麻酔学会に出席。 そこでコロンビア大学医学部唯一の日本人教員から、 米国の本格的な麻酔科を同大で見学するよう勧められる。 さらに、 見学の時に話した森島さんの学位論文の内容が認められ、 同大への即時採用を提案される。
 そして、 同大で初の女性教授となった麻酔学の世界的権威アプガー教授に出会う。 自身も外科医を志したという同教授から、 「女性の外科医は男性には太刀打ちできないと教授から諭され、 新分野の麻酔学に転向したのよ」 という話を聞く。
 アプガー教授は森島さんを 「血を分けた姉妹」 とかわいがる一方、 「女性 が認められるためには、 男性より優れていなければならない。 この不公平は、 あなたの娘の世代になるまで改善されないでしょう。 あなたならできる」 と膨大な宿題を課した。
     (以下、 次号)
 猛烈な勉強によって森島さんは、 米国国立衛生研究所から個人研究費として百万ドル (当時のレートで三億六千万円) を得て妊娠中の羊を使い、 妊婦が摂取した薬物が、 いかに胎児に影響するかを調べる研究に没頭。 不眠不休の日が続いた。

 その後、 東京で開催された第1回世界周産期学会開会式に皇太子ご夫妻 (現在の天皇陛下ご夫妻) が出席された際、 美智子妃殿下にコロンビア大での研究内容を話す機会があった。 妃殿下は来場した、 いろいろな人達と言葉を交わされていたにもかかわらず、 帰り際、 森島さんに気づき、 「日本 の麻酔学のために頑張ってください」 と声を掛けられたといい、 森島さんは妃殿下の記憶の良さに驚いたと懐かしんだ。
 やがて大学での研究の成果が認められ、 米国国立衛生研究所顧問に任命される。 しかし、 米国内で羊の飼育係が、 妊娠羊がもたらす特有の感染症によって死亡したことから、 研究所が妊娠中の羊を扱っている動物飼育施設の閉鎖を命令。 森島さんの研究費も全額が返却させられることになった。
 それまでの人生で最大の暗礁に乗り上げた森島さんは、 ある晩、 亡き恩師アプガー教授の 「あなたならできる」 という言葉を思い出し、 妊娠羊を使わない未知の研究に挑戦。 新たな研究費を獲得して難局を打破した。
 森島さんは 「生き馬の目を抜くような競争の激しいアメリカの一流大学で生き延びるためには、 失敗してもあきらめず、 苦しくても、 それを顔に出さず、 先を見て挑戦して行けば目的を達すること ができるという信念が必要」 と振り返った。
 また、 学校ではあまり深く触れられることのない、 めまぐるしく変わる世界情勢に関する知識、 日常生活での身近な福祉、 世界に目を向けた科学、 絵画、 音楽、 文学など芸術に対する感性を養うよう 母校の後輩達に勧めた。
 オペラや絵画、 歴史などにも精通する森島さんは、 高女を一年残して卒業したため近代日本文学作品などに親しむ機会がないまま社会人になったことを悔やみ、 その穴を埋めるかのようにして、 その後に読んだ二十世紀の日本文学を代表する医師の作品を列挙。
 上田秋成、 森鴎外、 斎藤茂吉、 斎藤茂太、 北杜夫、 木下杢太郎、 加賀乙彦らの名を挙げ、 伊東市生まれの木下杢太郎 (本名太田正雄) について調査すると、 母方の親戚だということが分かったという。
 孫が通う米国のハイスクールでは、 主要科目は国語、 数学、 科学、 アドバイザリーで、 アドバイザリーの時間には、 その日の話題、 例えば国際情勢、 経済、 社会情勢、 芸術関係、 福祉、 政治など多方面の話題を教師と共に意見交換するという。
 その上で、 世界情勢が日々変わっていくことを指摘し、 後輩達に留学を勧めた。 留学は、 学問を修得することが主目的だが、 多国籍、 多民族、 多宗教の中で生活し、 日本を外から見ることによって祖国愛と国際的視野を身に付けるのに役立つ、 と説いた。
 また、 グローバル情報の把握を勧め、 今日では英語さえ理解できればインターネットを使って世界中の動向を即座に把握することが可能で、 豊富な情報を基に世界観を確立できるようになる、 と指摘。
 とりわけ情報把握の重要性について森島さんは、 資源に乏しい日本が対米戦争を決断するにあたり、 米国で学び国情を知っていた山本五十六や米内 (よない) 光政ら多くの海軍高官が反対したことを例に挙げた。
 ここで森島さんは、 国の経済の安定は国民の幸せの第一条件であることはもちろんだが、 果たしてその繁栄の上に座っていて、 若い世代の将来に平和は約束されているのか、 と投げ掛けた。
 世 界の情勢が日々変わっている点については、 国際関係に大きな影を落としている最近のウクライナ情勢を挙げ、 日本はEUや米国などと連携しつつ、 しかも良好なロシア関係をいかに保つかという外交の板挟みになっていることを心配。
 ヒトラー率いるナ チスの党大会会場となったニュールンベルクの写真を示した森島さんは、 「日本では、 沖縄以外は軍が本土の外で戦ったから、 非人道的な原爆を含む空襲の被害は別として、 国民が本土内で戦闘に巻き込まれることはなかった。 しかし、 ドイツを含む ヨーロッパの国々では、 国内が戦場となったため、 軍人も非戦闘員も全てが戦いに巻き込まれ犠牲になった」 と、 大戦が日本とドイツの国民に与 えた被害の違いを説明。
 戦後の日独の歩みは異なり、 ドイツは人権に対して歴史的責任を負い、 ニュールンベルクという都市は自ら平和と人権保護への積極的貢献が義務付けられていることを強く自覚し、 その達成のために巨大な戦争当時の建物を取り壊さず、 ナチスによる国家社会主義時代の情報を提供し、 大戦の歴史を後世に伝えるため党大会会場を資料館として公開している。
 そこには家を破壊されて逃げ惑う市民、 ユダヤ人の撲滅を目的としたホロコースト、 双方に多大な犠牲者を出したノルマンディー上陸作戦に次いで、 ドイツ軍惨敗に至るまでの克明な記録が展示されている。
 これに対して、 日本にには、 戦争の記録を、 これほど克明に大規模に公開している施設はないだろうとし、 「戦争経験のない世代の訪問者は、 どんなことがあっても戦争を繰り返してはならないことを切実に体験してほしい」 と訴えた。
 六十年近くを外国で過ごしている森島さんは 「祖国日本の平和への願いが、 年を重ねるごとに募ってくる。 ことに帰国するたびに毎朝、 千本浜の堤防を歩きながら、 日本は、 なんと幸せな国でしょう、 との思いが込み上げてくる」 という。
 その上で、 「皆さんには、 私が世界情勢に照らし合わせて、 どれほど深刻に祖国の、 そして故郷の恒久的な安泰を望んでいるかを酌み取ってもらえないかもしれない」 としてシリア内戦を例示。 十 五万の市民が命を失い、 着の身着のままで難民となった二百十万人が、 あなた方の親兄弟と同じ人間だと想像できるか、 と投げ掛けた。
 また、 チュニジアのジャスミン革命に始まった 「アラブの春」 は春を迎えないまま民主化できず、 エジプトでは軍政に逆戻り。 また、 ナイジェリアの過激派武装集団ボコ・ハラムによる二百七十人もの女子学生拉致事件などを挙げ、 安心して教育を受けられる後輩達の境遇との違いを示唆した。
 一方、 日本が戦後六十九 年にわたって平和を保ってきたことは世界の模範であり、 経済成長を遂げた日本の周辺に不穏な波風が立ち始め、 挑発的な言動があっても、 これまでは冷静に対処してきた日本政府は国際社会で高く評価されてきた。
 しかし、 安倍晋三首相の靖国神社参拝以来、 日本 への国際的批判が台頭。 これを平和を脅かす糸 口とさせないためには、 外交面に勉強が足りない政治家達が、 外国政府に対する不合理で軽率な批判などをやめ、 政局的な思惑に左右されるような駆け引きに時間を浪費せず、 真に、 国民に最良の未来を作ることに誠意を尽くしてほしい、 と求めた。
 そして後輩達に対し、 「将来、 周囲との国際関係が最悪になっても日本からは戦争を仕掛けないだろうが、 不幸にも日本本土が侵略されそうになれば、 それを阻止するのは若いあなた方だ」 と、 戦争加担せざるを得なくなることを指摘。
 また、 「日本が米国に全面依存できるというのは思い違い。 米国は日米安保条約に基づき日本を守ろうとしている一方、 最近のニューヨーク・タイムズ紙は、 安倍首相の姿勢を国家主義だとし、 『日米関係が、 ますます深刻な脅威になっており、 米国の国益にならない』 ことを指摘している」 と米国の見方を紹介。
 さらに、 安倍首相の集団的自衛権行使にも懸念を示し、 「行使を容認する憲法解釈変更をめぐる政府の有識者懇談会の報告書が提出された今、 これを強引な手法で押し切らず、 十分に時間を掛けて適切な形で新しい解釈を明らかにすべきだ」 と主張。
 最後に 「井の中の蛙にならず、 常にグローバルな情報を把握、 理解し、 国際社会で日本の役割を果たし、 日本の危機に対して、 武力でなく話し合いの解決策による国際外交を駆使し、 どのようなことがあっても戦争を繰り返さないために、 たゆまぬ努力をしなければならない」 とし、 戦争で最愛の父親を失っているだけに、 非戦を願った。
       (おわり)

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