当院の看護師が受診した近医の大学同窓耳鼻科医で日本耳鼻咽喉科学会百年史編纂に携わり、又日本医史学会古くからの会員でもある木村繁先生から電話を頂いたことを切っ掛けに、慈恵医大初代学長金杉英五郎の養母の姪である貞子と結婚六人の子供をもうけ貞子病死後、小西巴と再婚した私達の母ゆきの伯父の黒須巳之吉の物語である。
黒須巳之吉は、一高東大を卒業し、慈恵医大初代学長金杉英五郎の病院に奉職その後ドイツ留学と第一次大戦勃発後はスイスに移りバーゼル大学留学 (この前後の詳細は、耳鼻咽喉科展望1968.11 特集 明治100年と日本の耳鼻咽喉科の中「明治一百年について」頁463-頁467黒須巳之吉 及び 黒須巳之吉の留学先スイス バーゼル大学耳鼻科ジーベンマン教授の1928 年逝去時 東京学士会館にて開催のジーベンマン先生追悼会につき 日本医史学会に薫・日出雄共著による原著あり2021年67巻4号)後、金杉病院副院長となり、金杉院長の命により慈恵医大東京病院耳鼻科部長転職、関東大震災で東京病院退職し千代田区永田町に耳鼻科病院開設、慈恵医大より医学博士号を取得。昭和40年5月号慈大新聞には、金杉英五郎ご生誕100年記念会の準備委員長としての黒須巳之吉の記事あり。しかし、私共の母方祖父の兄である黒須巳之吉の父親は大工であり、その長男である巳之吉が何故医師になったのか不明であった。 ところが現在ニューヨーク在住の2012年瑞宝中綬章受章のコロンビア大学痲酔科終身名誉教授の産科痲酔の権威森島久代先生から、2015暮れに 日本でお話を伺う機会を得て、謎が解けた。森島久代先生の御祖父は、駿河沼津藩主8代目の 水野忠敬の重臣で織田信長の子孫である織田豊二であり廃藩置県で千葉県菊間に藩主と共に 転居し教育に携わる。この明治学制改革前後に千葉県成田で織田豊二は、多くの人を支援し教育し現在成田の織田家菩提寺天台宗薬王寺境内に、この織田豊二を讃える石碑があり、織田豊二の支援を受けた中の一人である黒須巳之吉は医師になり、末弟七郎も慈恵医大卒の耳鼻科医となり、また母の兄である巳之吉の甥の黒須房男は、外科医となり、その長男光男や我々兄弟も医師になり日出雄の次男昭則も内科医となったと思うと感慨深いものがある。
このホームページは、家系を論ずるの主旨ではないので、黒須巳之吉の後妻小西巴の出自については論じない。
ベルツはじめとする明治お雇い外国人教師につき関連資料と共に別ページで記す。