中野正剛 振東塾(緒方竹虎関連のホームページから引用)

網迫の電子テキスト乞校正@Wiki よりお借りした文章です。

中野君が昭和十七年十二月、「天下一人をもって興る」と題する講演を日比谷公会堂でやったのが東条軍閥の忌諱に触れてまず舌を封ぜられ、次いで翌年正月「東京朝日」にのせた「戦時宰相論」が東条の激怒を買って筆を折られて以後、中野君の政治的活動は全く狭められたが、それでも古人と語ることを知る彼の心境は、必しも屈託しなかった。彼はそこで任侠の恩師黒須巳之吉君が中野の志を悲んで寄付した成城の別荘に振東塾を開設し、現実の政治より政治の根幹をなす人間に培うべしとして聴講随意の「太閤秀吉」の講筵《こうえん》を開いた。そこには彼の率いた東方会の青年以外、官僚も会社員も学生も伝え聞いて殺到し、警察のスパイも聞き耳を立てた。彼は太閤に託して胸中の磊塊を吐いた。「太閤秀吉」が終ると「建武中興」を講じた。建武中興に藉りて時局を諷しようとしたことはもちろんである。「太閤秀吉」は後、単行本として出版され、七万部を売った。藁は水の方向を知る。世間の動向をみて彼の心境もまた決して寂しくなかった。単行本になった「太閤秀吉」の序文はそれを語っている。(敬称略