高橋英毅・日出雄・薰三兄弟へ 及び日出雄の米国インターン時代

ルーツ探しの旅2016

高橋日出雄の外科医としての経歴。
米国セント・フランシス病院インターン時代、国立循環器病センター現名誉総長北村惣一郎先生がまだお若い頃米国セント・フランシス病院レジデントでおられ、ご一緒させて頂きました。

 
セント・フランシス病院でのエピソード                                  当時米国では日本ではまだ希であった心臓バイパス手術が非常に盛んに行われており、ある時 北村惣一郎先生が術者となり、シカゴのCook County Hospitalから来たアテンディング フィジシャン米国人医師二人が第一助手・第二助手となり、インターンの日出雄が第三助手となったことがあり、茶目っ気のある米国人は、日本人二人と米国人二人が対峙したため、これはパールハーバーだと冗談を言っておりました。

高橋日出雄は、群馬大学医学部卒業後、1972年4月東京慈恵会医科大学外科系大学院に入学同時に東京慈恵会医科大学第一外科医局(綿貫喆教授)に入局。1974年4月 癌研究会付属病院外科研修 1975年6月米国外国人医師資格試験ECFMG 取得し、1976-1977年イリノイ州ロヨラ大学付属セント・フランシス病院にて外科系インターン(写真参照)。 当時セント・フランシス病院には、日本人医師は二人のみであった。もう一人の日本人は、当時大阪大学より留学されていた外科系レジデントの北村惣一郎先生であり、北村惣一郎先生は、後に国立循環器病センター病院院長◆Vol.1スペシャル企画 2016年9月1日  国立循環器病センター総長((北村惣一郎先生は、M3のサイトでご自身の経歴を述べられている。ー M3より引用 心臓外科史50年、「私の人生そのもの」 川崎病への冠動脈バイパス手術を世界で初めて実施したのが、国立循環器病研究センター名誉総長の 北村惣一郎氏。その手術法は「KITAMURA Operation」として知られ、海外の教科書に記載されているほか、手塚治虫の漫画、『ブラックジャック』にも登場する。奈良県立医科大学第三外科の初代教授であり、国立循環器病センター(現国立循環器病研究センター)時代には、心臓移植や心臓弁の組織移植医療に取り組むなど、常に新しいチャレンジを 続けてきた北村氏。「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」「負けん気や。唯一、負けん気。それはどこの業界でも、スポーツでもそうでしょう」。こう語る北村氏の目に、心臓外科をはじめとする外科、今の医療の在り様はどう映っているのか――。M3 Web siteに詳しい))。となり日本を代表する心臓移植を含めた世界的心臓外科医となられている。 一方日出雄は、東京慈恵会医科大学付属第一外科大腸肛門班に属しながら、1974年 大塚の癌研附属病院外科(当時部長は梶谷先生)在籍、1976-1977年イリノイ州ロヨラ大学付属セント・フランシス病院にて外科系インターン後1980年4月 東京慈恵会医科大学大学院修了 医学博士、1983年国立がんセンター病理にて大腸癌の病理および実験大腸癌の研究後 東京慈恵会医科大学付属第一外科を辞し、1987年7月 東京都足立区高橋クリニック開設 その後1997年2月 千葉県松戸市分院 タカハシクリニック開設した。以後地域医療・外国人医療にも力を注いでいる。

 

 

 

蝶が結ぶ縁 国立循環器病センター名誉総長北村惣一郎先生と高橋日出雄    

国立循環器病センター名誉総長北村惣一郎先生も蝶を趣味とされ捕虫網を今でもいつも車に載せているとのお手紙を頂きました。

高橋日出雄の蝶の観察記録                                        オオムラサキの定点観察オオムラサキ(タテハチョウ科)学名Sasakia charonda Hewitson でSasakia(1863)は日本昆虫学の創始者の佐々木忠次郎博士の名前から、charondaは紀元前、イタリアシシリア出身の立法学者カロンダス、Hewitsonはイギリス人ロバート フォーチュンとヒューウイットソンによって始めて世界的に紹介された事から命名された。1957年(昭和32年)日本昆虫学会で国蝶に選定された、その理由はまさに勇敢、堂々と華麗、気品のある美しさを持っていて、ほぼ日本全国に分布しているからです。蝶の専門家(現在はサリーマンであった方だが、アマチュアでありながら北海道のある町の私設博物館館長に就任されている)の指導を受け、山梨県北杜市のある地域でのオオムラサキの生息地を詳しく地図に記載して内密に教えてもらった。毎年7月上旬に休日を利用して、2か所のエノキ林を持つ里山のオオムラサキ観察に出かけている。山の中腹、標高訳1400m、近隣にやや離れて民家もあるが、鬱蒼とした常緑樹の林に樹齢20~30年のエノキが数本立っている。2009年、モバイルパソコンを搭載した4WD車の中に採集用具、撮影機材、携帯電話や通信器具、地図、ノートなど重装備の荷を詰め、早朝、東京から高速道路に乗り、韮崎インターで降り、現地に向かった、1か所は約500平方メーターの範囲に、1

0数本のエノキやクヌギの木が濃い緑の葉が覆いかぶさるように、幹には湿潤した樹液を垂らし、蝶やタマムシらしき昆虫も群がっていた。また、近隣のもう1か所にも幹は巨大で、古木のエノキの幹の樹皮の欠損した部位に数頭のオオムラサキが群がり、交互に樹上を飛び上がり速やかに滑空し、しばらくすると再び、樹液の吸密に羽を休め、大きくゆっくり前翅を広げたり閉じたりしていた。休止して羽を閉じているとき、後羽の裏側は黄土色の樹木の褐色と相まって一時見分けにくくなる。その前羽が開いた瞬間に文字どうり紫色に輝くその反射に目を奪われる。静かにエノキの巨木に近づき、一気にネットで捕獲する瞬間、そして白いネットの網の中でバタバタと頑丈に羽音をする時、自分自身心臓の鼓動も同時に興奮のあまり高鳴っているのがわかる。日本の国蝶で九州、本州の山地、里山、丘陵地の雑木林、北海道の一部など生息域は広いが、開発や植林で樹林の面積が減少しつつある。里山環境を維持するシンボルとして各地で保全運動がおこなわれている。200年に入って、徐々に観察できる頭数が減ってきているのに気付いた。ある時、近くの小道のわきに立て看板が立っていた。そこにはごみ焼却場建設反対の文字大きく目立つように、またある時は周りの木やエノキも含めて切り倒されて、数本の幹が無造作に積み上げられていた。エノキも数本切り倒され、隙間のある空しい空間と化していいた。やはり、ここでも数年間の間でも里山の環境が変わり、オオムラサキは住みにくく、年々減少する傾向は間違いない。

観察日記 

視認2016,07,19  3頭2015,07,07  2頭2014,08,03  0頭2013,08,09  0頭2012、07,15  5頭2011,07,10  2頭2010,07,06  5頭2009,07,12  13等蝶のコレクション 今年採集した蝶――展翅中 オオムラサキ ♂山梨県韮崎2016,7,19  アカボシゴマダラ ♂港区高輪バス停  2016.9.9北上する蝶アカボシゴマダラ 左 神奈川県真鶴半島 2013,9,2  右 神奈川県真鶴半島 2013,7,13 アカボシゴマダラチョウは東アジアを広く分布し、日本では奄美大島特産の蝶で近年になって、関東地方に目撃されるようになった。歴史的に1995年埼玉県さいたま市、1998年以降神奈川県藤沢市、鎌倉市、逗子市などで採集すれるようになった。しかし、奄美諸島や台湾産とは捌種で、中国大陸や朝鮮半島に分布する種が人為的に飼育個体の放蝶されたものと考えられている。関東地方でもよく見かけたゴマダラチョウと近似種であるため、生態系を乱す恐れがある。東京有明や足立区の当クリニック近くの公園に植樹されている、ホルトノキの密を吸うところを見かける。ホルトノキとはポルトガルの木という意味で、江戸時代の本草学者、発明家の平賀源内が名付けてという。南方系の常緑樹で緑の濃い細長い葉にところどころ、光沢のある深紅の鮮やかな色の葉の混在に異国的な感じを抱くが、本来欧州の木ではないという。ツマグロヒョウモンチョウ 左 ♀ 静岡県沼津市香貫山 右 ♂ 東京都夢の島公園 本州九州、四国の平地で最も普通に見られる蝶だが、以前から北進する傾向をみせ、従来迷い蝶とされていた中部、関東地方で1990年代から分布を広げ、急激に拡大している。現在では東北地方まで採集報告がある。幼虫の植草がスミレ類であるため、近年都市部でもスミレの植樹がみられる事から頻繁にみられるようになった迷い蝶本来の生息地でない土地で発見された蝶メスアカムラサキ ♂ 静岡県伊豆の国市葛城山2002,08、23 オーストラリアを含む東洋熱帯に広く分布し、アフリカ、アメリカにも産す日本では本州、四国、九州の7~10月に散発的に採取される、南方系の迷い蝶である 左台湾産 ♀ナガサキアゲハ ♂ 静岡県東伊豆河津温泉郷 2013,7,13 九州全土の平地,山地で見かけ、近年北上がみられるようになった。近年の地球規模の異常気象や温暖化の傾向から、蝶類にも生態系の異変が起こりつつあり、1985年頃から近畿地方、1997年静岡県、三浦半島、関東地方でも時々採集された。地理的変異があり白斑の強い西表島産、全体に白化が目立つが、それに比べ、宮古島で発見された短尾型の遺伝的性質をもつ大型のアゲハチョウ科の美しい蝶である。